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(左から三宅藤九郎さん、和泉元彌さん、和泉淳子さん)
先輩に誘われて参加したフットサルでプレーした後の飲み会で 偶然私の前に座られた女性が三宅藤九郎さん。 話をしてみるとなんと狂言師。女性狂言師という ことでびっくりして、弟さんが和泉元彌さんと知り二度びっくり、 それまで狂言を観たことがなかったので渋谷狂言ライブ を観にいったのですが、静寂の能楽堂の雰囲気と、 600年前もまったく同じように演じられてきたという事に 不思議な感慨を覚え、そのあたりのことをいろいろとお伺いしたいと思い、 板橋の稽古場にお邪魔して、 和泉元彌さん(二十世宗家。長男)、和泉淳子さん(史上初の女性狂言師。長女)、三宅藤九郎さん(十世三宅藤九郎。次女)にお話を聞いてきました。

狂言を観たこともない方が多いと思うのですが、狂言とはどのようなものでしょうか?

狂言はもともと神社仏閣で演じられたことが多くて、 作者が神職だったり僧侶だったりするんですね。 即興劇的要素を持っていた時代もあったんですよ。 庶民の芸能でありながら公家や武家の庇護を受けて、 ちょうど両者の間を結ぶパイプのような役目をしていたんだと思います。 庶民の生活を描いていながら、 庶民の人が観ることもあれば公家や武家が観ることもある。 まさに風刺劇で、大名や侍烏帽子をかぶった人が笑いものになったりするんです。 でもそれを見て大名や侍という人たちは一緒に笑っていたわけですよ。 それがすごく健全で、時代もおおらかだったんだと思いますし、 「風刺」といってもどこかで胸が痛んだり 泣いてる人がいるだろうなというような笑いではないんです。

狂言の演目はいくつくらいあるのでしょうか?

254曲ありまして、それを<現行曲>と呼んでいます。 それは伝統的にある時代から減ったり増えたりはしていないものです。 それとは別に新しく作られたものは<新作狂言>と呼んでいます。

装束は昔から変わらないのですか?

基本的に変えません。ただ消耗品なので、 時代によって作り変えていかなければなりません。特に袴は下に履くものですし、 すったり膝をついたりすることで消耗していくので 直します。ただそこでも、デザインを 復元して残しておくことを<型を興す>というんですが、 昔からの変わらない柄を今の時代に蘇らせるということをやりながら、 図柄は変えないようにしています。

演出といういい方がいいかどうかわからないのですが、そういうのはあるのでしょうか?

基本的にありません。アドリブとか うけたから繰り返そうかなどということも一切ないです。 台詞もそうですし、抑揚もそうですし、間に至るまで。 特に修業の期間は絶対的に守らされます。

唯一先代がいっていたのは、演者に許されているのは<心の味付け>だと。 形だけじゃなくて、心を演じているんだ、心を受け継いでいるのだということですね。

簡単にいうと、とても面白い狂言でも 「この曲つまらないなあ」と思って演者が演じると つまらない舞台になるんですよ。 今の人には伝わりにくくても、 昔のことやその曲の面白みを演者がしっかり理解して演ずると 趣のある楽しい舞台になるんですね。 あとは綺麗に演じようとか、明るく演じようとか、 単純にそういう心の持ちようで 舞台は変わります。 伝統なんだからこのとおりにやっていればいいんだよ と毎日椅子に座って決まったことをして帰る、という ような感覚ではいけないと思います。 より綺麗に、より美しく演じようと思いながら 100年200年かけていく中で、間が磨かれていくんですね。

初代から20世まで<ウルトラマン>みたいなものなんです。 ぬいぐるみみたいに中に入っている人間は変わっていっても、 あくまで和泉宗家といえば和泉宗家。一人の人間が600年生きられないから、 その心を受け継いで20人が中に入っているという感じです。

個性は?

基本的に個性を出そうと思って演じる世界ではないですね。 けれども反対に怖いのは、 隠す部分が全くない舞台なので個性が出てしまうということです。 同じ狂言を3人が演じても配役が変われば観る人の受け取り方は違いますし、 年齢が変わればまた変わりますし……。 観る人にとっても演じる側にとっても面白みではあるけど。怖さでもあります。


(クリックすると稽古の様子を動画で再生します)

ここで稽古を拝見しました。「稽古は見せるものではないので、 取材の時は『見せ稽古』という形でお見せするんです」とのこと。 撮影をしながらしばらく稽古を拝見しました。 三姉妹弟の息のあった稽古を間近で見て、能楽堂の静寂な空間で 観てみたくなりました。「やるまいぞやるまいぞ」「そうじゃそうじゃ」 頭に残ります・・・。

和泉淳子さんは史上初の女性狂言師とのことですが、それまで女性は演じてこなかったのですか

もともと演じてはだめ、という決まりはなかったんです。 時代背景といえば時代背景ですね。今のように、社会のさまざまな分野に 女性が出てくるというのは、最近になってからのことですね。 今までは女の人は舞台に立つ機会や修業の機会が与えられないで きましたから、<女性狂言師>が登場できなかったんだと思います。 でもちょうど時代の後押しもありましたし、 「<和泉流宗家の芸を残す人材>という意味では 女性でもできる」という信念を持って 指導してくれる師匠に恵まれました。 あとは、相手役に恵まれたということもあります。 一人だと男性とやるしかないですが、 姉妹二人いれば女性だけの狂言もできてしまう。 また、ここに3人4人と男性が加わることによって 男女一緒の狂言もできるわけです。

女性狂言師の方は、メイクなどはされるのでしょうか?

しないんですよ。 どんな役でも全くしません。 狂言は素顔を演じるものなので。 「女」ということで舞台に上がるのではなく「役」を演じるわけですので、 男性の狂言師が演じるのと同じように、当然「女」の役も演じます。 紅も許されないので、若干それこそ描くとしたらちょっと眉毛くらいですね。 それ以外はファンデーションも塗らないですし……。

男性や女性を演じる時に意識されていることはありますか

狂言の中の女性を演じようとして 「自分が女だから」と思っていると逆にマイナスだ、 男を演じるとき以上の気持ちでやれ、と先代の宗家からいわれました。

女性の役だから男性の役だからという前に、やっぱり人間を演じる ということになるわけでして、男性も女性も関係なく <人間>狂言師として舞台に立ちます。 私たちは化粧をしなくても抵抗はないんですね。 3歳からやっていますので、そんな頃からお化粧はしないですから(笑)。 目に見えている部分だけじゃなくて精神的な部分も、 根幹にすごくしっかりした部分があるので、 その心構えが舞台の伝統を守ることにつながってくるんだと思います。

(三宅藤九郎さん) 狂言は主役によって13に分類されるんですけれど、 「女物」という分類があるくらい、狂言の女性というのは特徴的に描かれているんですね。

(和泉元彌さん) 少し語弊があるかもしれないですけれども、狂言の中の女性は 今の女性に近いんです。例えば江戸時代の女性像よりも今の女性の方が近いと思います。 和和しい女とか、女性が女性らしく演じるわけではないんです。 男勝りな、それでいて一生懸命家のことを思えばこそ 旦那の尻でも蹴り上げるような女性ですね。今淳子がいっていた「根幹」というのは、 狂言の中で描かれる女性に共通している芯が強い女性。見た目も強いな(笑)。

和泉元彌さんにお伺いします。ハッスル参戦はまたどうして。

一番大きな理由は、橋本真也選手との出会いだったんです。

2年以上前ですが、熊本公演の帰りの飛行機でご一緒したんですよ。 隣の席に座られて、橋本さんから声をかけていただきました。 ちょうどマスコミが過熱報道をしていた時の映像をご覧いただいていたみたいで、 全然違う世界だと思っていた方が、 意外と画面を通しても宗家という立場とか修業のこととか、本質の部分を見てくださっていて、 「誤解をされようが筋を通しているからあなたは強い」とおっしゃっていただいたんです。 「和泉流のいってることは真実だということが分かる」と。 ちょうど橋本選手は新団体のZERO-ONEを設立された頃だったんですね。 「プロレスも今大変な時期になっています。何か一緒にいいものを 作ることができたら楽しいですね」ということで、名刺交換をして お別れしたんです。

そしてハッスルを拝見する中で思ったのが、ハッスルは総合エンターテイメントだと。 プロレスラーとして磨いてきた人が、お芝居もやり、魅せるために 体を使ってるじゃないですか。腕力の勝負じゃない。 そうやって考えると、自分は狂言師で、狂言には謡があって舞があって 演技があって、昔だったら即興劇的な要素、軽業的な要素もあった。 人間が持っている表現力を全部兼ね備えた人が作ったのが狂言という芸能だと思うんです。 室町に生まれ、今、世界にまで通用する、世界に誇るエンターテイメントだと。 「平成に生まれたエンターテイメントで何かできますか」と いわれたら、これは挑戦状じゃないですか。

ただ、狂言師としてできることなのか、やっていいことなのか。 反対に、半端な気持ちで出て狂言の世界に傷をつけ、 ハッスルの世界にも傷をつけてということではプロの仕事じゃないですし…。 いろいろなハードルを立てては乗り越えて、 家族会議を開いては、主催者の方とお話しして、そのうちに、 本当は年明けてからの参戦でもといわれていたんですね。

それが7月に橋本選手が亡くなって、橋本選手が実は11月3日の試合を 目標にトレーニングとリハビリを繰り返していたと聞いたんですよ。 それで9月頃になって「11月3日に参戦してもらえませんか」といわれたんです。

1年近く悩んで来年に参戦するのか、 10年がんばって努力をしてやっと参戦するのか、 それともその10年分のがんばりをこの数ヶ月でやって 橋本選手との縁を大切にするのかと考えたら、 このときだなと思ったんですね。

なので、橋本選手という人との出会い、約束があって、 狂言というものに対する信頼関係や自信があって(おごった意味ではなくて)、 あとは、セッチー鬼瓦軍団などまわりで支えてくれる人たちがいてくれて、 自分としては狂言に臨む姿勢と同じだったと思うんですね。 ひとりで軽々しく出て楽しく、ということではなかった。 そういう意味ではいろいろな思いが集約されて あの10分間のものができあがったんですね。 やっぱり人とのつながりや 狂言があるからこそ、あそこであれだけのものができたんだと思います。 僕がただの31のオジサンだったらば、きっとあそこで 何かやれといわれてもできないでしょうし、人も満足しなかったと思うんです。 次の日の新聞にも『600年の伝統が1万5000人を飲み込んだ』と書かれて、 それはほんとに嬉しいことでしたね。

(三宅藤九郎さん) 自分が横で見ていて思ったのは、 その場にいた人には何かしらのものが伝わるということです。 たくさんの人が関わっているイベントには それだけの時間と情熱がかけられているわけですが、 それはテレビではわからない。 あの場にいれば、これだけのものを作るにはそれ相応の何かがあったのだ というのは感じられると思うし、宗家のステージを見た人も、 そこに狂言があるからできたという部分を感じていただけたんだと思うんですよね。

演劇にしても何にしても 芸術ってやっぱり人間が作っているものだからこその魅力があるわけじゃないですか。 芸術的な作品というものの裏にあるエネルギー、そういうものを 感じていただくが一番大切なんじゃないかな、と思います。

お子さんが初舞台を踏まれました。今後親子での舞台も増えるのでしょうか?

小舞にしろ、小謡にしろ、子供が出る狂言は積極的に番組に組んでいきます。 子供がいないとできない狂言もあるんですよ。

これから数年の間で、次世代の和泉流宗家の狂言師が出揃うと思うんですね。 童の狂言が10歳くらいまでとすると、今後30年後まで 待たないと次の世代の子供たちが出てこないので、ここ10年20年 が華やかな舞台になりますね。

ちょうど自分たちが歩んできた狂言師の道を 今子供たちが歩み始めたので、子どもの狂言から青年期にかけて演じる 大曲へと順を追って観ていただくには今がちょうどいい機会だと思います。

 

 


(クリックすると狂言ライブの紹介トーク映像を再生します)

Homepage
和泉元彌(いずみもとや):http://www.izumimotoya.jp
和泉淳子(いずみじゅんこ):http://www.tokuro.com/world/family.html
三宅藤九郎(みやけとうくろう):http://www.tokuro.com/

日曜日の午後22時からという 遅い時間のインタビューでしたが、ほんとに私自身の姿勢の悪さが 恥ずかしくなるくらい、きりっとされた姿勢でインタビューに応じて 下さいました。能楽堂のあの静寂の中に響く狂言の声、いいですよ。 ストーリーもシンプルですし、笑いの要素が多分に含まれていますから、 構えてみることもなくご覧いただけると思います。インタビューの途中で お子さん達と少ししゃべる機会があったのですが、 めちゃめちゃめちゃめちゃかわいいです。おめめくりくりで、 ぜひ舞台みにいきたいー!と思いました。


板橋狂言への招待

 2006年9月2日@板橋区立成増アクトホール

【前売】 一般4,000円 高校生以下 1,500円
【当日】 一般4,500円 高校生以下 2,000円

より詳細なチラシ情報はこちら




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