新国立劇場 開場20周年記念 2017/2018シーズン 舞踏の今 その2 大駱駝艦・天賦典式『罪と罰』
制作発表会見に続き、麿赤兒さんにお話を伺いました。
撮影:荒木経惟
──『罪と罰』というタイトルを聞いて、まず思い浮べるのは、ドストエフスキーの長編小説(1866年)です。制作発表では、それともつながりのある作品になるとお話がありましたが、今の時代にどう立ち上がるのか楽しみです。 150年前も今も犯罪はあるけれど、(『罪と罰』主人公の)ラスコーリニコフのような犯罪者はいないよな。誰でもいいから刺すとか、今はもっと怖いような気がする。その背後に渦巻いているもの、何がそうさせてしまうのか、それが今回の主題。それは若い人に限ったことではなく、誰にでも通底するもの。
彼じゃなくて、俺かもしれない。 倫理観や自制心の崩壊、その原因はいろいろと言われていて、食べ物や環境ホルモンによって生物学的にニューロン(神経細胞)が退化してしまったとか。それはもはや頂点捕食者と言ってもいい人類が先細っていく予兆なのではないか…。僕なんかは、そうやって大げさにとらえちゃうんです。
写真は制作発表より
──過去の作品を掘り起こすことで、現在が見えてきそうです。 過去の人のほうが、ものごとへの向き合い方の深度があるというか、じっくりやっている感じがしますよね。答えをパッと出せと言われてもそうはいかない。それが面白いと言えば面白い。答えが出ないからこそ、我々が舞台というフィクションを作る。ある意味、社会生活もひとつのフィクションですよ。そのフィクションに対して、僕らはもうひとつのフィクションを鏡合わせのように見せる。そんなところかな。
──2016年の大駱駝艦の公演『パラダイス』を観ていると、次第にどちらがリアルで、どちらがフィクションか。何が本当で、何が作りモノなのか、わからなくなるような感覚がありました。 それが僕の好きなところ。問いかけって言うのかな。民主主義という制度ひとつをとっても限界があったり、ほころびが見えてくる。じゃあ新しい制度がいいのか、独裁者か、王政復古か(笑)。そこまで行かなくていいかもしれないけれど、歴史が教えてくれること、我々はそれを知っている。そこで、こういうひとつの見方もあるよ、ということをボンと出してみようと。
──歴史から学び、知っているはずなのに、人は同じことを繰り返してしまうものです。 難しいところだよね。たとえば社会主義がいいと思って、夢を持ってやってみたけれど、それをダメにするのは人間の欲望。そう思うんだよね。
理論としては悪くない。それをどんなに権力を持ったとしてもつましくやればいいんだけど、そうはいかないんです。結局、人間を、その精神を改造しないといけない。そんなことをつらつら思っているんだけど、自分でもなかなか改造できない(笑)。
でも、人間がどうもおかしいぞということは感じる。そういうところをうろうろしているんです。
──お話をお聞きした上で、改めて『罪と罰』というタイトルを思うと、よりズシリと響きます。そして、今回のチラシヴィジュアルもグッと心をとらえるものになっています。 怖いぞ、怖いぞ~って(笑)?
いい写真だと思いますよ、自分で怖くなるもん。何だろうな、何か乗り移ったのかな?
撮影:荒木経惟
──『罪と罰』というタイトルと共に、鳥籠の中に居るのも、それを見つめているのも麿さんです。 人間は大きな意味で囚われていますからね。まず、酸素を吸って炭酸ガスを吐いて…宇宙の摂理にとらわれているし。飛んでいきたいけれど、飛べねーし(笑)。社会的なことも含めてあらゆることにがんじがらめ。そんな意味合いです。
立ち小便もできないしタバコも吸えない…どんどんそうなっていくよね。だけど昔の田舎では立ち小便が肥料になるとかあったんだよね。それが正しいかどうかは別として、それだけでもだいぶ違った見方があることになる。僕なんかは田舎(の感覚)がまだそのまんまあるから、窮屈なんだよね。
──もうひとつ今更ながら伺いたいのは、チラシの麿さんもそうですが、大駱駝艦の公演ではみなさん白塗りをしています。なぜ白塗りを。 必ずしも白とは限らないですけどね。白の効果で言えば、一回死んでもう一度出てきた死体が語るという意味合いもあるし、何もない真っ白で空っぽなところに「神様、入ってください」と。また死体というだけでなく、エネルギー、モチベーションのために違うものになることで神様に通じる。神様とのやり取りになる。その上で、みんなの願いみたいなものを引き受けるというところもあるんですよ。
──ここからは大駱駝艦の構成について伺います。麿さんは演劇から舞踏へ。ほかのみなさんはどんなメンバーが集まっているのでしょうか。 僕は演劇青年だったんですけど、方法は違うけれど見世物としては変わりないと。ほかは、いろいろですよ。演劇科、文芸科、美術学校とか、理工系、農学部出身もいましたね。(素養も)バレエをやっていた人もいれば、身体を全く動かしたことのない人もいる。多岐にわたります。
──そんなみなさんが集まって創作をしている。 だいたい5年くらいしてくると僕の言っている言葉が共通言語として通じるようになって、それがメソッドのようになるんです。「ケモノ」だとか、「痙攣」なんて言葉を投げかけて、身振りを返す。「ピカソ」なんて言うことも。入りたての人はびっくりするよね。
──そこから身振りを採取していくということになるのですね。それにしても「ピカソ」とは! そこでの言葉というのはひとつの符丁のようなもの。そこから概念を創っていき、それを鋳型と呼んでいる。そこでは美術の手を借りることもよくあります。「ジャコメッティ」とか「ベーコン」とか。彼らが創り出す身体(体型)から時代の変遷がわかるから。ミケランジェロの時代の身体、ギリシャの身体の「美」があり、そこから楕円形の身体になり、手足が長くなり細くなる。ジャコメッティのあの不安定で立っているのも危ういような細い身体は、特に時代を反映していると思うんだよね。それを拝借しています。
──大駱駝艦も結成から46年、巣立った方もいれば、新しく入ってくる人もいる。麿さんと創作する、麿さんと一緒に遊ぼうという方がいつも集まっているのですね。 でも、20人とか30人ですから。国家みたいにはいきませんね(笑)。
──会見でもおっしゃっていた疑似家族というのも面白いなと。 まぁね、それも疑似ですから。あくまで(笑)。
お話を伺っていると、科学技術から音楽、美術、哲学…さまざまな話題が飛び出し、あっという間の時間でした。単に知識というだけでなく、自然体で私たちの問題として語りかけてくれる、その想いが『罪と罰』という舞台でどう表現されるのか。どう表現されるのかにとどまらず、それを観た自分の心にどう映るのか、何を想うのか、それも含めて公演が楽しみになりました。
おけぴ取材班:chiaki(撮影・文) 監修:おけぴ管理人