劇作家の「僕」とその家族を巡る、一晩の物語
2018年、新国立劇場にて初演された蓬莱竜太さんの書き下ろし戯曲『消えていくなら朝』(演出:宮田慶子/当時芸術監督)は、蓬莱さん自身と家族をモチーフとした私戯曲的作品。今回は、蓬莱さん自らが演出も手がけ、フルオーディション企画として2,090名から選ばれたキャストによる上演ということでも話題の公演です。
【蓬莱さんの戯曲の妙】
6月某日。初日まで日にちがある段階での通し稽古を見学。フルオーディションならではの準備の早さか、作品全体の完成度の高さをすでに感じます。
まず驚いたのが舞台美術です。初演から大きく印象が異なり、中央には一枚板のダイニングテーブル、上手には明るいキッチン、下手には囲炉裏テーブルと暖炉。木工好きな父のこだわりが詰まった家具が邸宅を彩ります。
物語は、長く疎遠だったこの家の次男、定男(=“僕”)の帰省から始まります。
海辺の家、波の音が聞こえる静けさ。父と息子の「間」が多く含まれた会話が作品の冒頭をゆっくりと紡ぎます。蓬莱さんの台本には「…」や「(笑)」といった言語化されない間や含みが随所に織り込まれており、そんな台詞にならない感情の機微が、家族の会話に奥行きやリアリティを与えます。そして、それをどう芝居に落とし込むかが見もの。

劇作家の僕・定男:関口アナンさん

父・庄次郎:大谷亮介さん
<戯曲公開(期間限定)>現在(公演初日前の7月9日まで)公開されている本作戯曲。ご紹介した冒頭の二人のシーンにもたくさんある「…」。大谷さんと関口さんのお芝居を見ると、まさに台本に書いてあることが立ち上げられていることがわかります! ほかにも「ん?」とか「うん」とか「あぁ」とか日本語で書かれた戯曲ならではのニュアンスがリアル。観劇前に物語の展開を知りたくないという方も、冒頭の数ページだけでもその面白さは伝わるので、この機会に、ぜひ!(詳細は
こちら)
【家族だから、家族だけど……】
穏やかな二人のシーンから、一転、18年ぶりの家族が集った夕食はテンポの良い会話に。まるで時間の進み方が変わるような、モノクロからカラーに変わるような、この緩急が心地よい。
ここで登場人物を紹介すると。

父・庄次郎:大谷亮介さん

母・君江:大沼百合子さん
一家の大黒柱として懸命に働いて家族を養ってきた父・庄次郎には大谷亮介さん。家長として、息子が連れてきた彼女を迎えるどっしりとした存在感。気を使いつつも定男や彼女のレイに疑問を率直に問いかけるところに、企業人として生きてきたお父さんと芸能の世界に身を置く僕や彼女との間の壁を感じます。そんな壁は、大沼百合子さん演じる母・君江やほかの家族も一緒です。いわゆる“一般人”代表のように、さらに家族だから遠慮なしに踏み込んだ質問をしてしまう。それは純粋な興味からなのか、定男を案じてのことなのか、自由に生きる定男への嫉妬なのか、その奥にある感情は様々です。といっても、ふと我に返ると、そうやって演じるみなさんは“演劇人”なんですよね。お芝居って面白い。

兄・庄吾:松本哲也さん

妹・可奈:田実陽子さん
定男の仕事に対して否定的な兄・庄吾には松本哲也さん。華やかな世界に身を置き、好きなことを仕事にしている弟に対して、愚直に生きてきた庄吾はだいぶ失礼なもの言いもしますが、それもまたリアルなのかもしれません。
場の空気が悪くなると、道化のように振る舞いバランスをとろうとする妹・可奈には田実陽子さん。さっぱりした雰囲気に隠されているものは……。痛々しさも感じますが、同時にとても心を寄せたくなる可奈です。

僕・定男:関口アナンさん 彼女・レイ:坂東 希さん
定男の彼女のレイには坂東 希さん。実家に連れてくるような関係ではあるものの、唯一、家族ではない登場人物。今の定男を一番よく知る人物として、疎遠だった家族とは別角度から僕とその家族を見つめます。失礼な質問をされても笑顔で受け流し、食卓の雰囲気が悪くならないように振る舞う。一見、受け身のように見えるレイにも思うところはあり……。
そして蓬莱さんをモデルにした“僕”、定男を演じるのは関口アナンさんです。以前のインタビューで蓬莱さんがお話されていた、オーディションで関口さんを選んだ理由のひとつ、「劇作家の匂いがした」という言葉に妙に納得。イラっとしたり、イラッとさせたり、絶妙な加減で“劇作家の僕”を演じます。また、フルオーディションでの選考の際によく聞く「全体のバランスを考えて選ぶ」ということ、今回は家族の話だけにそれがとても重要で、そしてすごく上手くハマっていることを実感しました。
ほかにも家族のだんらんの間もひとりキッチンに立つ母親や、片づけを手伝おうとする彼女など、よく見る実家の風景が広がります。
そんな家族の会話にときどき緊張感が漂い、ややギクシャクしながらも、なんとか穏やかさを保つ序盤。後になって振り返ると、その会話はどこか芝居がかっていたような気も。
それが定男の「この家のことを書いてみようと思うんだよね」あたりから様子は変わり、それぞれの感情の堰が切れます。信仰、不倫、推し活、増築…。長年胸の内に溜め込んでいたもの、被害者意識が、怒涛のように噴き出し、舞台はまさに修羅と化します。
劇作家らしく(!?)そんな混沌の中でも、どこか斜に構えて、冷静に分析し言語化する定男。観ていて「言葉の応酬になると劇作家にはどうしたってかなわないわ」と感じてしまうほどです。ただ、そんな定男にレイが放つ「下に見ないで」というひと言、勝手ながら「そういうところだからね!」と思わず胸がすっとしました。
そして終盤、定男もついに客観から主観へと変化していきます。
さらけ出す本音、本心がもたらす修羅場──それでも朝が来ると変わらぬ日常が始まる。そこにも家族の不思議があります。
【蓬莱さんの演出の妙】
通し稽古の最中、フィクションとはいえ、“僕”は蓬莱さんを、その家族は蓬莱さんの家族をモチーフとしているので、家族の衝突、“僕”の言葉に、幾度となく目の前の蓬莱さんの背中を見てしまいました。きっと劇場で観ても、チラチラと蓬莱さんのお顔が思い浮かぶことでしょう。そして妹・可奈の「この家をありのまま書いてさ、誰が面白いって観るの?」という台詞に、観客はそっと「私、それを面白いって観ていますが」と頷き返す……。劇世界と現実を行き来するような新感覚の観劇になりそうです。
主に食卓で繰り広げられるお話ですが、もうひとつ、リビングに隣接したベランダで定男とレイが静かに話をするシーンも印象的。その間、リビングにいるほかの俳優の動きはスローモーションだったり、時間差で動き出したりと、とても演劇的。ベランダのお芝居に干渉しないように作られていますが、本番でどう見えるのか、楽しみです。そして、波の音も聞こえそうな静かなベランダからリビングのシーンに戻ったときの、スイッチオンするような切り替えの緩急も鮮やか!
さらに、言葉を発するわけではない“背中”がなにを語るのかも気になりました。言葉を受け止める登場人物たちの背中にも注目です。
【稽古場の雰囲気は和やか】
物語こそ激しい応酬が展開されるものの、稽古場は終始和やか。
とくに蓬莱さんと大谷さんのやり取りが微笑ましいのです。↑こちらは通し稽古の前に行われた、食卓での段取りの確認。自然なやり取りの中にも決めごとはしっかりとあります。大谷さんの「こうしたほうがいいよね。でも忘れちゃうかな」の言葉に、「そこが問題です」と笑う蓬莱さん。すると大谷さんから「まぁ、でも、段取りばかりを追う芝居をしてもね(笑)」と。
稽古場全体に笑いが起こりました。

蓬莱さん「昨日はお父さんが酔っぱらうのが早かったですね。序盤から酔う芝居されていましたが……」
大谷さん「いやぁ、クライマックスの芝居を意識し過ぎちゃって。ちょっと早かったね」
蓬莱さん「(芝居の)逆算が早すぎる!!」
◆帰省し「家族の話を書く」ことを家族に告げた“僕”。久しぶりの家族団らんが思わぬ展開を迎え、その一夜がお芝居になるという構造(フィクションですが!)。対話の先に、なにかが解決したり、大きなメッセージがあったりというタイプの作品ではありませんが、きっと忘れられない観劇体験になる『消えていくなら朝』。
「家族は無条件なのか」──、ある家族の一晩の物語を劇場でお楽しみください。
<ものがたり>
家族と疎遠である劇作家の定男(僕)は、彼女を連れて帰省する。18年ぶりに家族5人全員が揃う夜、続いていく家族の他愛ない会話。
しかし定男に対してはどうも棘がある。家族は定男の仕事に良い印象を持っていないのだ。定男は切り出す。
「...今度の新作は、この家族をありのままに書いてみようと思うんだよね。」
そして激しい対話が始まった。
家族とは、仕事とは、愛とは、幸せとは、人生とは、そして表現とは。本音をぶつけあった先、その家族に何が起こるのか、何が残るのか......。
おけぴ取材班:chiaki(撮影・文)監修:おけぴ管理人