新国立劇場2025/2026シーズン演劇『エンドゲーム』は、芸術監督・小川絵梨子さんが就任以来続けてきた〈フルオーディション企画〉の第8弾、そして最後の作品となります。
8年間で累計1万3千通以上の応募が寄せられたこの企画。すべての出演者をオーディションで決定するという試みは、小川芸術監督期の新国立劇場の新たな、そして象徴的な取り組みとして続けられてきました。
その締めくくりとして小川さん自らが演出するのは、サミュエル・ベケットの『エンドゲーム』。
1,016名の応募者の中から選ばれたのは、近江谷太朗さん、佐藤直子さん、田中英樹さん、中山求一郎さんの4名。全員が新国立劇場主催公演初出演となります。

撮影:阿部章仁
出演者4名と演出の小川さんが参加した合同取材会では、フルオーディション企画の意義、ベケット作品への向き合い方、そしてこれから始まる創作への期待が語られました。
【8年間続いた〈フルオーディション企画〉への思い】
──小川さんの芸術監督としての最後のシーズンということもあり、まず、フルオーディション企画に込めてこられた思いからお聞かせください。

小川絵梨子さん(演出)
撮影:阿部章仁
小川さん)このオーディション企画は、芸術監督就任前の参与の頃からずっと考えていたことでした。
キャスティングが、どうしても限られたつながりの中で行われることが多い日本の現状をずっと見てきて、新国立劇場だからこそできることとして、もっと広く公平に、作品に興味を持ってくださった俳優に門戸を開きたいと思ったんです。
応募すること自体も大変ですし、劇場まで来てくださることも負荷がかかります。だからこそ、結果に関わらず参加してくださった方が「参加してよかった」と思える場にしたい。そしてベストパフォーマンスを出していただくために、できるだけリラックスした状態で臨んでもらう。その環境を劇場全体で作ろうと、8年間、試行錯誤してきました。作品を一緒に作る仲間として──私たち、劇場のオーディションでもあったと思っています。
そのためキャスティングの際も「決まりました」ではなく、「ご一緒していただけますか」と必ず俳優の意思を確認し、もしノーというお返事でも、それが今後のキャスティングに不利になるということもない。俳優にも選ぶ権利があるという、フラットな関係性を大切にしました。そしてそれを、制作スタッフはもちろん、受付、会場への案内、メール対応などを担当する方々まで、オーディションに関わるすべてのスタッフが共通認識として持つように努めました。至らなかったところもあると思いますが。
──では、キャストの皆さんに伺います。応募のきっかけや、実際にオーディションの印象を教えてください。
近江谷太朗さん
撮影:阿部章仁
近江谷さん)僕はずっと「新国立劇場の舞台に立ちたい」という思いがあったんです。でも、待っているだけでは、その機会は来ないかもしれない。でも、オーディションなら可能性がある。そう思って応募しました。
純粋に演出家が、その作品のために選んだメンバーで作品を作れること、はじめてご一緒する方と出会えること、役者にとって、本当にありがたい企画だと思います。負荷を感じることはなく、「こんな企画がもっと増えたらいいのに」と、心から思っています。

佐藤直子さん
撮影:阿部章仁
佐藤さん)私は実は3回目の挑戦でした。近江谷さんがおっしゃったように、呼ばれるのを待っているだけだと、自分が演じてみたい役にはなかなか出会えないところもあります。その出会いに一歩を踏み出せるのが、この企画。そしてオーディションの時間は、とても贅沢な時間でした。ゴールが決められていない分、ある意味、無責任に楽しめる(笑)。そんな豊かさを感じました。
こうして小川さんと、そしていろんなバックグラウンドの方と出会って、一つの作品を作れることを本当に幸せに思っています。今はただ、わくわくしています。

中山求一郎さん
撮影:阿部章仁
中山さん)事務所や知名度に関係なく、フラットに開かれたフルオーディションというのは、日本ではあまり多くないとずっと感じていました。こういう機会があること自体がすごいと思いました。
僕は第一弾の『かもめ』も受けていて、我ながら(笑)かなりいいところまで行ったんですが落ちてしまった。その悔しさがずっと残っていました。でも今回、以前から興味のあった作品で、小川さんの演出と聞いて、もう一度挑戦したいと思ったんです。
オーディションの環境もとてもフラットで、相手役の方と台詞合わせをする時間もいただき、心理的なプレッシャーを感じることなく、自由に楽しめたのが印象的でした。

田中英樹さん
撮影:阿部章仁
田中さん)僕もフルキャストオーディションという仕組みに、まず驚きました。
実際に参加してみると、ものすごく気持ちのいい場所だったんです。
オーディションは、俳優にとって、そこで出会う人との交流を含めた演劇事情の勉強の場でもある。そのくらいの感覚で参加しましたが、とにかくストレスフリー。俳優が「試されている」というより、「歓迎されている」と感じられる空気がありました。
「もし日本の演劇がこんな環境で作られていったら、もっと面白くなるんじゃないか」って、本気で思いました。小川さんの考え方や思いを感じて、ちょっと泣きそうになったくらいです。
──みなさんのお話を伺っていて、こちらも泣きそうです。【「不条理劇」とどう向き合うか】
──俳優の皆さんにとって、『エンドゲーム』というベケット作品はどのような印象をお持ちですか。いわゆる「不条理劇」です。
撮影:阿部章仁
近江谷さん)正直に言うと、僕は不条理劇が苦手で、これまでは自分から遠ざけてきた人間なんです(笑)。
観る側としても、なるべくわかりやすくて楽しい芝居が好き。そういう劇団(演劇集団キャラメルボックス)で育ったもので。
でも、「小川さんの演出ならできるかもしれない」と思って応募しました。以前、小川さんが演出を手掛けた翻訳劇を見たとき、まったく違和感なく楽しめたことがすごく印象に残っていたんです。
『エンドゲーム』については、不条理劇で、『ゴドーを待ちながら』の作家が書いたくらいの情報だけでオーディションに臨みましたが、ある瞬間に突然スイッチが入って、気づいたら涙が出ていたんです。理由はわからないのですが、その瞬間に「もしかしたら、俺はハムなのか──」と思った。というのはちょっと言い過ぎかもしれないけど(笑)。
まだまだ僕自身わかっていないところもたくさんありますし、多分正解もない。でも、台本に向き合っていく中で、台詞がなんだか心地よく出てくるようになってきて、それを追求していったら、『エンドゲーム』の世界を生きられるのではないかと思い始めています。だから、「不条理はちょっと苦手で、ごめんなさい」という方も、同じように感じてきた人間が「どうですか?これ、大丈夫じゃないですか?」ということを目指してお届けするので、ぜひ観ていただきたいと思います。
佐藤さん)私も最初は「不条理劇とは」と検索しました(笑)。
読んでも、やっぱりすべてはわからない。俳優は、行き着く先もわからず、そこで起こることをその場その場で感じることしかできない。でも、この作品は「わからないこと」を面白がる作品なのかもしれないと思うんです。それが上手くいくと、お客さんも思いもよらないところで涙が出たり、笑ったり。そんな発見をしながら楽しんでもらえる作品になるのかなと思うんです。
中山さん)この作品には以前から興味があり、『勝負の終わり』という邦題のついた戯曲本を買って、役者仲間と読み合わせをしたこともありました。世界が荒廃している設定が、今のリアルタイムの現実と重なって見えたんです。
ベケットの会話は意味が通っているようで通っていない。でも、その中には彼らなりの条理がある。むしろ、人間も天候も、この世界そのものが不条理なのではないか。そういう感覚が、この作品には刻まれている気がします。「難しいと敬遠されがちな不条理劇を、誰もが楽しめるものに」と翻訳の岡室(美奈子)さんもおっしゃっているように、開かれた『エンドゲーム』にしたいと思っています。
田中さん)僕も、不条理=難解=苦手というタイプでして(笑)。でも最初は難しいと思っていたんですが、読んでいくと会話がすごく面白い。「不条理劇」という言葉や、これまでの価値観を飛び越えて、「これ面白いんじゃない? テンポや間を大事にすれば、ダークビターコメディとして成立するんじゃない?」と思うようになりました。自分の中で、期待値が上がっています。
──上演台本を読むと、確かにコメディだと感じるところがあります。
撮影:阿部章仁
小川さん)そこは翻訳の力が大きいと思います。
岡室さんの「これは絶望の劇ではない」という考え方が、私もとても好きなんです。確かに物語の状況はどんどん悪い方向に向かっていく。でも、それが単なる絶望の話ではない。そんなベケットが書いたものの意図を、きちんとすくい取って訳してくださっていると感じました。
登場人物たちは、その瞬間を精一杯生きていて、お互いに影響を与えながら時間を過ごしている。それを遠くから見ると、不条理な世界に見えるかもしれません。でも一秒一秒、舞台上で起きていることを見ていくと、そこにはちゃんと人間がいて、関係があって、時間が流れている。
そう考えると、この作品は決して「わからない、遠いもの」ではないと思っています。顕微鏡で見ていくように、その瞬間を見ていけば、むしろとても近い人間の物語なのではないか。それを稽古場で、このメンバーと一緒に探っていけることを、今とても楽しみにしています。
【行き詰って、どこにも動けない状態──チェスの終盤戦を意味するタイトル】
──近江谷さんが演じるハムは盲目、中山さんが演じるクロヴは足が不自由で、佐藤さんのネルと田中さんのナッグはバケツの中にいる。演劇、お芝居として、身体的な制約はどんな意味があると思いますか。小川さん)実は、制約があるからこそ生まれてくる言葉がたくさんある作品だと思っています。
もし全員が自由に動き回れる設定だったら、まったく違う芝居になる。
『エンドゲーム』というタイトル自体がチェスの終盤戦を意味しています。
行き詰って、どこにも動けない状態。そういう状況の中で、登場人物たちは時間を過ごしている。
身体の自由が限られているからこそ、言葉を交わしたり、物語を語ったりしながら何とか時間を生きていく。そういう人間の姿が、この作品には描かれているのではないかと思います。
岡室さんに教えていただいた話ですが、実はこの作品、ベケット自身の、野戦病院でのボランティアの経験に基づいて書かれ、草稿の段階では野戦病院が舞台だったと言われているんです。
戦争で傷ついた人たちが集められている場所で、身体の自由を失った人たちが時間を過ごしている。
そう考えると、身体の制約というのは、この作品にとってとても重要な要素なのだと思います。

撮影:阿部章仁
田中さん)役者としては、これまでこんなふうに身体を制限された状態で芝居をする経験はあまりないんです。
ドラム缶の中に入ったままという役なので、どうやってリアリティを作るのか。
生理的な反応や感覚をどう表現するのかというのは、これからみんなで探っていくことになると思います。
ただ、そういう制約があるからこそ、緊迫した状況で思わず笑ってしまう瞬間や、思いがけない面白さが生まれるんじゃないかという気もしています。

撮影:阿部章仁
中山さん)ベケットの作品を調べていくと、身体的な制約のあるものも含め、実験的な試みがたくさんされているんですよね。
例えば、役者の口だけに照明が当たって延々と語る作品や、決められた動きを繰り返す作品があったり、セリフにリズムをもたらすためにメトロノームを使って稽古したという話もあります。そういう意味では『エンドゲーム』も、制約そのものが作品の構造になっているのかなと思っています。動けない人物たちがいて、唯一少し動けるクロヴがいる。その関係の中で、世界の限界状態が表現されている。その実感みたいなものを大事にして演じていけたらと思っています。

撮影:阿部章仁
佐藤さん)ネルとナッグは、もともと自転車事故で下半身を失ったという設定なんですよね。
でも考えてみると、年を重ねていくと誰でも少しずつ身体が動かなくなっていく。そういう意味では、この作品の状況も特別なことではないのかもしれないと思いました。
目が見えなくなることもあるかもしれないし、身体が思うように動かなくなることもある。そういう制限の中でも、人はきっとどこかでギラギラ生きていて、誰かとつながろうとしている。その人間味が、滑稽にも、愛おしくも見える。そこが面白さなのかもしれないと思っています。

撮影:阿部章仁
近江谷さん)ハムは目も見えず、自分では何もできない状態で、クロヴにすべてを頼って生きている。それなのに威張っているんですよね。その状況自体が不条理で、でもそこに人間の面白さを感じています。嫌な人なんだけどどこか人間味があって、切なさや優しさが垣間見えるような人物になればいいなと思っています。
演じることについては、僕はサングラスをかける設定なので、目の表情で芝居をすることもできない。そうなると頼れるのは言葉や音だけになりますよね。
目力でごまかせない(笑)!
一同)これまでも、ごまかしてはいないでしょう(笑)
──最後に、それぞれの役に選ばれたキャストの魅力を、小川さんからお聞かせいただけますか。
撮影:阿部章仁
小川さん)まず、ここまでお話しくださったことも含め、キャスティングされたみなさんが創作に持ち込んでくださったものが、ずっと私をわくわくさせてくれます。
近江谷さんのハムは、劇中の状況下でも諦めずに生きようとする力強さがあります。支配し続けようとする滑稽さと悲しみ。その奥には、そこはかとない痛みや苦しみもある。そして、それでもなお支配し続けるところに、ほんのりとした希望や優しさのようなものも感じられる。そこを一緒に描いていけたらと思っています。
佐藤さんが演じるネルは、記憶を語ることの多い人物です。彼女が見ている世界や記憶の感触を、佐藤さんはとても繊細で実感のある形で表現してくださっていて、まるで本当に体験してきたことのように感じられました。その記憶がやがて消えていくという悲しさも含めて、とても印象的でした。
中山さんが持ってきてくださったのは、ハムに支配されていることへのフラストレーションや「この野郎」と思う反骨心、そしてその状況から抜け出していいのかわからないという従順さ。その二つのバランスは、クロヴにとってとても重要な要素で、どちらかに偏りすぎてもいけない。そのバランスをすごく自然に持ってきてくださっていたのが印象的でした。
田中さんは、やはり「語りの力」です。この作品では語ることがとても重要。ハムが物語を語り、クロヴも語ろうとする。その中で、ナッグを演じる田中さんの語りの豊かさというのはとても大きな魅力になると思っています。
ベケットの作品には、冷徹さの中にも人間を見つめる強い眼差しがあると思っています。この作品も状況としてはとても厳しい世界ですが、だからこそ登場人物たちがどう関わり、どう生き、どう言葉を発していくのか。その瞬間の中に、どこか小さな希望のようなものが見えてくるんじゃないかと思っています。
今回この温かいメンバーと一緒に、その世界を探っていけることをとても楽しみにしています。
おけぴ取材班:chiaki(インタビュー・文)監修:おけぴ管理人