
成河さん、藤田俊太郎さん
リアルと虚構が交錯するオートフィクション。
劇作家セルヒオ・ブランコ自身の体験を基に、スロベニアのホテルで起きる奇妙な出来事と、美しい青年との出会いを軸に物語が展開する『ナルキッソスの怒り』。
緻密な構造とミステリーの要素を併せ持ち、現実と幻想の境界を揺さぶるひとり芝居に挑むのは、俳優・成河さんと演出家・藤田俊太郎さん。
『ナルキッソスの怒り』(北隆館刊)の翻訳を手掛けた仮屋浩子さん、成河さん、藤田俊太郎さんの三人で作り上げる上演台本というのも話題の作品。スペイン語、英語、そして日本語。言葉を置き換えるだけでなく、構造そのものを移植する──そんな異例のプロセスを経て立ち上がる作品。その創作の核心に迫ります。
【オートフィクションを翻訳するということ】
──成河さんは「上演そのものが困難に思えた」とのことですが、どんな難しさを感じたのでしょうか。成河)
話自体がものすごく難解というわけではないのですが、ただ、「あのままでは上演できない」戯曲なんです。リアルと虚構が混ざり合ったオートフィクション※という形式で、作家のセルヒオ自身が語る作品。僕がやるなら「僕の話」にしなければ成立しない。
つまり、既存の台本をそのまま日本語にして上演することはできない。そこにクリエーションが必要になる。独自のクリエーションが許されるかも含め、「困難」だろうと。すると、ロンドンではセルヒオさん自身ではない、イギリスの俳優、カンパニーによる、英語での上演が行われていた。それが可能なら日本語版もできるのではないかと、わずかに光が差しました。そして、我々の手で上演台本を作り始めることになりました。ただ、こうして僕自身が上演台本作りに関われるのは、ひとり芝居だからできること。すべてが僕の言葉だから成立するのであって、共演者がいる作品では統一性が崩れてしまう。同じやり方はできないと思います。
※オートフィクション:作者自身の体験や人生(自伝的要素)を基にしつつ、小説的な虚構(フィクション)を融合させた表現形式
藤田)
セルヒオさんからも、「日本版として上演するために必要なプロセスですので、どうぞ進めてください」と言っていただき、1年近くかけて上演台本を創作してきました。そして、オートフィクションの発着点として、成河さんがご自身の話し言葉で書いてくださったプロローグのテキストが非常に素晴らしかった。これは画期的な作品を創れるのではないかという予感を感じ取り組んできました。
──上演台本を作る過程について、もう少し聞かせてください。藤田)
成河さんからお話があったように、元はセルヒオさん自身が作・演出したオートフィクション。僕たちが日本版を立ち上げるには、成河さん自身であり、“成河さんという演者”でもある存在を作らなければならない。
どこにその存在を置くのか。どのレイヤーに立たせるのか。その居場所を、多層的に作る必要がありました。
言葉一つひとつについても、スペイン語ではどう書かれているのか、英語版ではどう扱われているのか、さらに仮屋さんがどんな意図で日本語に翻訳されたのかを照らし合わせていく。一つの言葉に対して、複数の視点から検証する作業でした。
それを2週間に1回、数ページくらいのペースで、1年近くかけて積み上げていく。非常に時間のかかるプロセスでしたが、その分書き言葉をどう語るのか、という階層の豊かな上演台本になりました。一つの事象や言葉に対して、虚と実──言い換えれば「信じていいのか、信じてはいけないのか」という両義性をはらんだ台本です。だからこそお客様にとっても、いくつもの視座から物語を観ることができるようになっています。
成河)
結果的に、僕たちがたどった上演台本作りの道のりは、この作品においての翻訳という行為そのものを問い直す作業になっていきました。
セルヒオさんがこの作品で、オートフィクションという手法を用いて何を描こうとしたのかを、どうやって日本版に移植するか。表層の言葉だけを整えてしまうと、この作品の仕掛けでもある「入れ子構造」は崩れてしまう。
藤田)
今回、改めて感じたのは、「言葉を置き換えること」──スペイン語を日本語にする、それは一つの側面。
もちろんそれはとても大切なことです。言語によって構造の見え方も変わりますし、日本語には日本語の複雑さや豊かさがある。その特性を活かしながら、どうすればこの作品の本質、その構造や世界を損なわずに立ち上げられるのか。そこをずっと考えていました。
成河)
日本語の豊かさは、ある種の翻訳劇の壁になる。どの作品でも稽古場では、どんな言葉が当てはまるのか、「ベター」を探し続けていますが、この作品はその壁を突破しうるのではないか。書き言葉と話し言葉を混在させられる日本語だからできる遊び方は、この作品と相性がいいと感じたんです。
セルヒオさんからも「あなたがやるなら、あなたの話にしていい」と言ってもらえた。その言葉を信じて、自分の言葉で自分の話として上演しようと思っています。原作を読んでいない方は、「成河の話なのか?」と思いますよね。「何を言っているんだ」と(笑)。僕が言わんとすることは、原作を読めばわかることですが、原作を読まずに来たほうが面白いと思います(笑)。この手の作品は、ネタバレは避けたほうが楽しいから。
文学者であり、大学で教鞭もとるセルヒオは、神話についての哲学的、思想的な考察を、文学的比喩を用いながら物語を紡いでいく。それと同時に、ミステリーを走らせることで、観客の集中を途切れさせない。そして上演台本を作っていく中で、セルヒオの表現の巧みさを改めて実感しました。
──これは俳優としても、かなり特殊なプロセスだったのでは。成河)
そうですね。今回は1年ほどかけて、自分の言葉を台本の中に入れていく作業をしてきました。「てにをは」の一つひとつ、あるいは「だから」なのか「つまり」なのか、そのレベルで延々と検証した記憶があるから、いわゆる既存の台詞を覚えるのとはまったく違うプロセスでした。
実は、全部で37,000語くらいあるんです。ただ、自分の言葉で組み立ててきたものなので、覚える作業自体は思ったよりスムーズでした。お客さんにとっては「だから何だ」という話ですが、実感として(笑)。
それよりも大事なのは、「どの言葉を選んだか」ではなくて、「どうやって選んできたか」という過程。この一年の思考、セルヒオさんの考えや作品の本質を追いかけ続けた時間の積み重ねが、そのまま身体に残っている。
だから極端な話、多少言葉が違っても成立させられるし、もし今、新たに硬い書き言葉を渡されても、この作品のマインドで、自分の言葉でしゃべることができる。それが俳優としての準備の理想なのかもしれません。ただ、現実的にはとても不経済な方法でもある(笑)。今回、そういう取り組みが許されていることに、感謝しています。
【「今そこにいるのは誰か」という問い】
──作品のテーマ、『ナルキッソスの怒り』が投げかけるものについては、どのように捉えていますか。成河)
すごくシンプルに言えば、「今そこにいるのは誰か」という問いです。セルヒオさんはこの作品で、演劇の本質である「見る/見られる」の関係を、「ナルキッソスの神話」に重ねている。そこでは、観客もまた見られる存在であり、その関係性の中で、お互いの姿はどんどん変容していく。
そして劇場という空間は、一瞬にして海にも山にもなり、2000年前にも未来にもなる。その空間で、「ここはどこなのか」「あなたは誰なのか」「私は誰なのか」という問いを、エンターテイメントとして、遊ぶ。すごく演劇的な作品です。
※ナルキッソス
ギリシャ神話に登場する、水面に映る自分の姿に恋して死んでしまった美少年として知られていますが、若くして亡くなった双子の妹を深く愛し、その面影を泉に映る自分自身に重ね合わせていたという解釈。セルヒオは、今回の滞在の目的である学会で「神話と眼差し」について発表する。
──藤田さんはいかがですか。藤田)
この作品が言わんとしていることは、成河さんがおっしゃる通りに、「誰だ、お前は何者だ」なんです。これは、『ハムレット』の第一声。僕にとって、演劇に出会って以来、ずっと問い続けている言葉でもあります。演出に取り組むときも、必ずそこに立ち返る。
成河)
「Who’s there?」だね、翻訳しづらいやつ(笑)。
藤田)
そうです(笑)。この作品もまた、この一冊の台本のすべてをかけて、その問いを投げ続けている。だからこそ、僕も「これぞ演劇だ」と感じます。
しかもそれを、重々しく、神経質にではなく、遊びながら問い続ける。そこも魅力だと思います。
──非常に謎めいた作品にも思えますが、観客にとっての入口はどこにあるのでしょうか。成河)
入れ子構造で、とてもロジカルに組み上がっている作品。その構造を紐解く楽しさもあるし、一方でミステリーとしてのドライブ感もある。
「今見ているものは何なのか」という感覚を追いかけていくだけでも、十分に楽しめると思います。
──演出家として、どのような関わり方、アプローチを考えていますか。藤田)
この1年、僕の日常に、ずっとこの台本がありました。セルヒオの作家性を、成河さんがどんな居方をすれば素敵に伝わるのか、また各シーンをどんな演劇の方法でどんなシーンを立ち上げたいかを自分に問い、折に触れて考え続けてきました。
劇中、学会で講演していたと思ったら、次の瞬間にはランニングをしている。小説や台本では成立するけれど、上演ではどうするのかと考えていたら、書き言葉と台詞をシームレスに成り立たせるアイディアが湧いてくる。台本の言葉が、自分の日常に影響を与えることも楽しんで準備してきました。
また、「ナルキッソス」というモチーフをどう提示するか、抽象にするのか具象にするのか。スマートフォンやパソコンの画面を通した、ホテルの部屋の外の世界にいる人との対話をどう見せるのか。イゴールという存在をどう立ち上げるのか。舞台は「見る世界」でもあるので、視覚、ビジュアル的に表現すべきことも本当に多い。でも、最終的には、成河さんが、この物語をどれだけ観客に語りかけられる場を作れるか。それが何より大事だと考えています。
【想像力を信じているからこそ】
──タイトルや公演の概要を拝見した時、はじめに受けた印象は「怖そう」でした。ずばり、この作品は怖いのでしょうか。成河)
耳あたりのいいことだけを言うのも違うと思うので、正直に言うと、ある程度のアラートは必要だと思います。暴力や性的な描写もありますし。ただ、それも含めて表現には明確な意図があります。
藤田)
確かに、痛みを伴う描写のシーンでは、お客様にその痛みをちゃんと「痛い」と感じてほしいとも思っています。劇場で想像力によって痛みを経験することで、現実で他者に対して同じことをしない。やはり演劇には、そういう力があると、僕は信じています。
ギリシャ悲劇もそうですが、残酷な出来事を描くことで、人間の感覚を呼び起こす。それは決してネガティブなことではなく、むしろ人間が生きていくうえで必要な経験でもある。劇場や演劇って、そういう場所なんだと思っています。
成河)
同意します。劇場は、安全にそれを訓練できる場所。
残虐な描写は、人間の想像力を強く刺激する。でも演劇は最後に、それが「嘘だった」と明かすことができる。だからこそ、その危険性も含めて想像力を扱い、最終的には観客に普遍的なお話として手渡すことができる。想像力を信じているからこそ、その構造がしっかりと組み込まれている作品だと思います。
この作品では、共感や同調、同情に頼らず、純粋に想像力だけで物事に向き合う。他では得られない体験になるだろうし、そしてそれがエンターテイメントの本質でもある、僕はそう思います。
◆成河さんと藤田さんの演劇人として「似ているポイント」について伺った
【後編】へ続く!
おけぴ取材班:chiaki(撮影・文)監修:おけぴ管理人